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郷土の誇り 菅茶山



菅茶山は、延享5年(1748年)2月2日、備後の国安那(やすな)郡川北村(現在の福山市神辺町川北)に生まれた。

天明元年(1781年)頃、神辺に私塾『黄葉夕陽村舎(こうようせきようそんしゃ)』を開いた。塾は3室20畳の講堂、3棟の寮舎、菜園、茶山居宅からなる。寛政8年(1796年)に福山藩の郷校となり、以後『神辺学問所』『廉塾(れんじゅく)』と呼ばれる。塾では、菅茶山とともに藤井暮庵(ふじい・ぼあん)・頼山陽(らい・さんよう)・北條霞亭(ほうじょう・かてい)など都講(塾頭)による四書五経を中心とした講釈がなされ、寺子屋などの初等教育を修了した10〜20歳代の多くの階層にわたる塾生が2〜3年にわたって学んでいる。

享和元年(1801年)、福山藩の儒官となり、藩校弘道館で講釈を始めた茶山は、文化元年(1804年)と文化11年(1814年)の2回江戸詰を命ぜられ、藩主阿部正精(あべ・まさきよ)直属の教授となり、文化6年(1809年)に『福山志料(ふくやましりょう)』を、文政2年(1819年)には『福山藩風俗問状答書(ふくやまはんふうぞくといじょうこたえがき)』をまとめている。

「宋詩に学べ」という文芸運動を西日本で大成した茶山は「当世随一の詩人」と評され、詩集『黄葉夕陽村舎詩(こうようせきようそんしゃし)』の発行は、多くの文人墨客の来訪を促した。

文政10年(1827年)8月13日、80歳で病歿し川北村の網付谷(あみつけたに)に葬られた。その墓碑は頼杏坪(らい・きょうへい)の撰文である。

『廉塾ならびに菅茶山居宅』は昭和28年(1953年)に国の特別史跡に、『菅茶山の墓』は昭和15年(1940年)に広島県史跡に指定されている。

引用:菅茶山記念館-菅茶山について
公式ページ:菅茶山記念館

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